カラヤンがクラシックを殺した

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。そこには特別な「意味」が存在した―。本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーブルの、絶望や狂気、矛盾や破滅が内在する『危険な音楽』を通して、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。

ふと久しぶりにブログでも読もうと検索してみたら、亡くなっていたっていう。
とてもとても残念なことです。まだ40代のはず。「石」の本とかはどうなっちゃうのだろ?
もっとたくさん本書いて偉くなって批判して、ぬるくて薄気味悪い「癒し」とか「アート」とか壊してしまえば良かったのにね。

「まんが」が本質的に「芸術」かどうかなんて興味ない。
「芸術」を専門に勉強した人は、「それは芸術ではないと」と正面切っては言えない。「わからない」ものに判断は下したくない。
「テストの成績が8割型は行く末決めるんだよ」とは、小学校のセンセは言えない。
「エコ」と言ったら「NO」とは言えない。
「事実」とは関係なくて、「そう言ってはいけない」暗黙の縛りと、実は非常に暴力的な中庸が蔓延してる。
「今」とは、そんな時代なんだと思う。


学者なら徹底的に向き合うことができても、普通に生活してる人には難しい。
だってさ、生活してしかなくてはならないから。
「小さな幸せ」に満足して「プチ贅沢」に癒されるフリをしないわけにはいかない。
(だけど、フリもだいぶ下手もになったなあ。)


なんて理解したみたいに「感想分」を偽装してみます。
「偽装」じゃなくて「擬装」。だってフィクションなんだもん。


このセンセの言いたいこと、自分の実感を伴って同意する。
批判的なレビューも多数あるけれど、それぞれの言ってることって「この本で言ってることと違う」と感じる。
やっぱり「個人」は「主観」から離れることは不可能なんだね


『20世紀絵画』『20世紀音楽』『逸脱する絵画』も読んだけれど、本書が一番分かり易い。
ただいま『迷走する音楽』を読んでいるところです。



沈黙期間には上記の他、『サロメ』、『嗤う伊右衛門』、『さくら』などを読みました。
あとネットワークとかプログラミング関連の本とか。必死に。

嗤う伊右衛門 (角川文庫)

嗤う伊右衛門 (角川文庫)


来週末は康本雅子さんと鉄割アルバトロスケットを観に行きます。
(チケットとれた!!!)

以上です。